大判例

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東京高等裁判所 平成元年(ラ)343号 決定

抗告人 小沢キミ

被相続人 米村恵子

主文

原審判を取り消す。

本件を千葉家庭裁判所に差し戻す。

理由

一  本件抗告の趣旨及び理由は別紙記載のとおりである。

二  そこで判断するに、記録によれば、以下の事実が認められる。

1  被相続人は、昭和61年11月30日千葉県市川市○○×丁目×番××号の自宅において急死した。このため、被相続人の親族林正雄の申立てにより昭和62年5月28日千葉家庭裁判所において弁護士○○が被相続人の相続財産管理人に選任され、右相続財産管理人の申立てにより、同年5月27日同家庭裁判所において相続権主張催告の公告がされ、昭和63年6月15日その期間が満了したが、相続人の申出はなかった。被相続人の相続財産としては、死亡当時現金、預金、生命保険金、不動産が存在したが、その後右相続財産管理人により負債の整理等が行われた結果、現在は現金のほか、原審判遺産不動産目録記載の不動産が存在する。

2  被相続人は、昭和15年10月31日父米村忠和、母米村トミの長女として北海道函館市において出生し、昭和31年3月地元の中学校を卒業したが、そのころ母トミを失い、さらに忠和の経営していたうどん工場が倒産したため、忠和とともに、同人の姉に当たる抗告人を頼って上京した。当初、被相続人と忠和は、約1年位抗告人の家に同居し、抗告人の家族と生計をともにしていたが、その後2人で都内渋谷区○○に転居し、菓子製造卸、販売業を始め、さらに昭和49年末千葉県市川市○○駅前において和菓子店を開店するに至った。2人は順調に業績を伸ばし、昭和53年9月には千葉県市川市○○×丁目に家を新築し、昭和57年3月には同県船橋市○○×丁目にアパートを建てるまでになったが、昭和61年2月7日忠和が死亡し、次いで前記のように被相続人も死亡した。なお、忠和の同胞で健在な者は、抗告人と北海道松前郡○○町に住む林ウメだけである。

3  抗告人は、前記のとおり被相続人の父忠和の姉で、昭和24年北海道函館市から上京し、以来東京都内に居住しているが、被相続人と忠和が抗告人を頼って上京して来たときは、2人を1年間位自宅に住まわせ面倒を見たほか、2人が市川市に和菓子店を開店したときには2人に運転資金として200万円を貸与した。また、その間、抗告人は被相続人らと頻繁に行き来し、被相続人と忠和が前記和菓子店を開店して3年間位、春秋の彼岸、3月と5月の節句、年末など店の忙しい時に家族交替で手伝いに行った。さらに抗告人は、被相続人が暮れの忙しい時期にお節料理も作る暇がないため、被相続人が亡くなる前年まで、毎年暮れにお節料理を届けるなど、被相続人が亡くなるまで被相続人を助け、被相続人と親しく交際していた。以上のとおり認められる。

三  以上認定の事実によれば、被相続人の伯母に当たる抗告人は、北海道函館市で商売に失敗し、自己を頼って上京してきた忠和と被相続人を自宅に住まわせ、一時生計をともにし面倒をみていたほか、以来一貫して、必ずしも恵まれない境遇にあった両名に対し、多額の資金援助をしたり無償で仕事を手伝うなど、通常親族がなし又はなすべき相互扶助の程度を超えて援助、協力してきたものというべきであるから、民法958条の3第1項の「被相続人と特別の縁故があった者」に該当するものと解するのが相当である。してみれば、これと見解を異にする原審判は取消しを免れず、同じく被相続人の相続財産について分与を求めている林正雄申立ての相続財産分与申立事件と併合の上(家事審判規則119条の4第2項)、さらに分与すべき相続財産の額若しくは割合を決すべきものであるから、本件を原審に差し戻すこととする。

四  よって、原審判を取り消し、本件を千葉家庭裁判所に差し戻すこととし、

主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 野田宏 裁判官 川波利明 近藤壽邦)

(別紙)

抗告の趣旨

原審判を次のとおり変更する。

(主位的請求)

一 抗告人に対し、被相続人の相続財産を分与する。

二 本件申立及び抗告の費用は被相続人の相続財産から負担する。

(右一項に対する予備的請求)

抗告人に対し、被相続人の相続財産のうちから、被相続人及び亡忠和の永代供養のための費用として金500万を分与する。

抗告の理由

一 本件には、家事審判規則第119号の4の2項に基づき、審判手続及び審判を併合して行うべき、前記関連事件が存するが、本件審判は各別になされている。本件審判は右手続違反があると思料されるが、仮にこれが審判を取消すべき瑕疵といえないとしても、同規則119条の7の第3項により、前記関連事件の申立人についても、本件抗告の効力が及ぶものとして取り扱われるべきものとなると思料されるので、まず最初に指摘しておきたい。

二 ところで、本件審判は調査官調査による調査が行われたものの1回の審問もなされないままになされたものである。

原審判は、「申立人が被相続人の生前において、被相続人の親族として通常なし又はなすべき相互扶助・協力の域を超えて、前記特別縁故者に該当するような特別の寄与ないし功労のあった者であるということではない。」と認定している。

しかしながら、抗告人が調査官に対し述べて来たように、抗告人は、被相続人の父米村忠和と被相続人と被相続人父娘に対し、戦前から一貫して資金の援助等をしてきたことはもとより、被相続人を連れてその父(亡忠和)が、抗告人を頼って上京してきて以来、当初は抗告人の家に1年有余寄食させ、あるいは市川市内で菓子店を営むに際しても、その開店の当初から、抗告人の家族を挙げて、毎日の手伝いをはじめ、さまざまな物的、精神的援助を継続して行ってきたものである。そして、忙しいときには、抗告人及びその家族が交代で無償で店の手伝いに出かけ、毎年年末年始の繁忙期には、おせち料理は抗告人において作って届けるというような関係を継続してきたのである。

右のような長年の関係を、単なる親族としての通常の付き合いに過ぎないとするのは、両者の間の深い精神的つながりをも含めた、特別に親密な関係を理解しないものである。

右のような認定となったのは、家事審判官自ら、審問において抗告人及びその娘たちから直接その関係を聴取しなかったことから、通常の親族間の関係と異なった、深いつながりがあったことが理解できなかったものと思われる。

三 特に、調査官の調査に対して、歳をとってきている抗告人が、亡忠和及び恵子(被相続人)が、このままでは無縁仏になってしまうので、どうしても永代供養をしてやりたい、そのための費用だけでもよいから、一部相続財産の分与をして欲しいと思っている、個人的には財産が欲しいのではない、と切々と訴えていたことがどれだけ伝わっていたのであろうか。

そして、本件調査に立ち会った代理人からも、「本人からは、最初から、永代供養のための費用だけでも相続財産から貰えないかということであった。そのためには財産分与を受ける以外にはないということで、本申立をした経過であるので、一部分与でもよい」旨を特に付言しておいたのである。

しかるに、本件審判においては、その点について全く触れられておらず、抗告人にとって最も不服な点はそこにあるのである。

本件においては、少なくとも、一部分与が認められてしかるべきである。

〔参考〕原審(千葉家 昭63(家)1115号 平元.5.16審判)〈省略〉

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